THE MOUNTAIN CODE 100 山で死なない基礎知識 / 未分類

5-5.敗退の技術:「引き返す」を身につけるための思考法

 MA-SAN
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こんにちは、MA-SANです!
「山は、そこにあるから」
ジョージ・マロリーが残したこの言葉は、私たちを山へと駆り立てる根源的な動機を語っています。しかし、彼が残したもう一つの、そしてより重要な言葉を忘れてはいけません。
「山は逃げない(The mountain will always be there)」
登頂を断念し、無念の思いで下山する仲間を励ましたこの言葉こそ、全ての登山者が心に刻むべき、安全登山の真髄です。
しかし、多くの登山者がこの言葉を忘れ、「あと少し」という希望的観測にすがり、命を落としています。今回は、「引き返す」という最も重要な技術について、ある単独行登山者の悲しい事例を通してお話しします。

事例:「山は逃げない」を守れず、帰らなかった単独行者

それは、ある秋の週末のことでした。一人の単独行登山者が、長年計画してきた縦走登山に挑みました。1日目に甲武信ヶ岳に登頂し、山中でテント泊。2日目に国師ヶ岳へ向かい、大弛(おおだるみ)小屋へ下山する、という充実した計画です。

1日目は快晴に恵まれ、彼は計画通りに甲武信ヶ岳の頂を踏み、達成感に満たされてテントで眠りにつきました。問題は、2日目の朝でした。天気は下り坂で、予報よりも早くガスが立ち込め、小雨が降り始めていました。

国師ヶ岳へ向かう縦走路は、彼が想像していたよりも不明瞭でした。ガスで視界も悪く、彼は次第に「道に迷っているかもしれない」という不安に駆られ始めます。何度も立ち止まり、地図とコンパスを確認しますが、焦りからか、確信を持って現在地を特定できません。

彼の頭の中で、二つの声がせめぎ合います。
「今すぐテント場まで引き返すべきだ。まだ1時間も歩いていない。戻るなら今しかない」
「いや、でも、ここまで来たんだ。昨日からの努力が、この計画のために費やした時間が、全て無駄になってしまう。もう少し進めば、知っている道に出るはずだ」

彼は、後者の声を選んでしまいました。そして、これが彼の運命を決定づけました。悪化する天候の中、彼は道なき道へとさらに迷い込み、体力を消耗していきます。その頃、彼が予約していた大弛小屋では、到着予定時刻を大幅に過ぎても現れない彼を、スタッフが心配し始めていました。しかし、彼からの連絡は、ついに入ることはありませんでした。

彼が発見されたのは、数日後の捜索活動によってでした。登山道から外れた沢筋で、雨に打たれ、低体温症で亡くなっている姿で見つかったのです。彼のすぐ側には、びしょ濡れの地図が広げられていました。もしあの時、彼が引き返すという「勇気」を持てていれば、たった1時間で安全なテントに戻り、温かいコーヒーを飲んでいたはずでした。彼は「山は逃げない」という原則を守れず、二度と山に戻ることはできなくなってしまったのです。

なぜ、我々は引き返せないのか?「サンクコストの誤謬」という心の罠

なぜ、この登山者は、引き返せば助かることが分かっていながら、危険な前進を選んでしまったのでしょうか。それは、人間の誰もが持つ、非常に強力な心理的な罠にはまったからです。それが、「サンクコストの誤謬(サンクコスト・バイアス)」です。

サンクコストとは、直訳すれば「埋没費用」。すでに支払ってしまい、もう取り戻すことのできないコスト(時間、労力、お金など)のことです。そして「サンクコストの誤謬」とは、「これだけ多くのコストを費やしたのだから、今さらやめるわけにはいかない」と、未来の判断を過去のコストに縛られて、不合理な決断を下してしまう心理傾向を指します。

登山に当てはめてみましょう。

  • 費やした時間(休暇の取得、移動時間)
  • 費やした労力(ここまでの辛い登り)
  • 費やしたお金(交通費、装備代)

これらの「サンクコスト」が、私たちの判断を曇らせるのです。「天候が悪い」「道に迷った」「体調が悪い」という、今ここにある客観的な危険よりも、「ここまで頑張ったのにもったいない」という過去のコストを重く見てしまう。これが、引き返す決断を妨げる、最も恐ろしい心のメカニズムなのです。

「敗退」を「賢明な判断」に変える技術:撤退トリガーの設定

では、この強力な心理的バイアスに打ち勝ち、冷静に「引き返す」という判断を下すには、どうすれば良いのでしょうか。その答えは、感情や根性に頼るのではなく、事前に客観的なルールを決めておくことです。私はこれを**「撤退トリガー(引き金の意味)」**と呼んでいます。

撤退トリガーとは、「この条件が満たされたら、無条件で引き返す(あるいは計画を変更する)」という、自分自身との絶対的な約束事です。これを山行前に設定しておくことで、現場の感情に左右されず、冷静な判断が可能になります。

【撤退トリガーの具体例】

  • 時間トリガー:「13時までに〇〇(目標地点)に到達できなければ、理由を問わず引き返す」。これは「ターンアラウンドタイム」とも呼ばれ、最も基本的で重要なトリガーです。
  • 天候トリガー:「遠くでも雷鳴が聞こえたら、即座に稜線から離れ、安全な場所へ下る」「山頂でガスに巻かれ、視界が30メートル以下になったら、登頂せずに下山する」。
  • 体調トリガー:「頭痛が治まらない、あるいは一度でも嘔吐したら、高山病を疑い、即座に下山を開始する」「足の攣りが、5分間の休憩で回復しなければ、その日の行動は中止する」。
  • ナビゲーショントリガー:「確実な登山道や目印を10分間見失ったら、無条件で最後の確認ポイントまで引き返す」。

これらのトリガーは、安全な自宅で、冷静な頭で設定するからこそ意味があるのです。

まとめ:【CODE 5-9】「敗退」は失敗ではない。最高の成功体験である。

登山における「敗退」は、決して恥ずべき失敗ではありません。それは、客観的な事実に基づいてリスクを評価し、自らの命を守るという、最も賢明な判断を下せた証です。登頂よりも価値のある、最高の成功体験と言えるでしょう。なぜなら、その判断が、次の挑戦へとあなたを繋いでくれるからです。

CODE 5-9: 山における「敗退」は、失敗ではない。それは、自らの命を守り、次の挑戦へと繋げるための、最も勇気ある積極的なリスクマネジメントである。

CODE 1:【心構え】「サンクコストの呪縛」を自覚し、過去の労力を切り捨てよ。

「もったいない」と感じた時こそ、危険信号です。あなたが今までに費やした時間や労力は、もう戻ってきません。判断の基準は、常に「今、ここから、安全に帰れるか」という未来に向けた問いかけだけです。あなたのプライドと、あなたの命、どちらが大切ですか?

CODE 2:【計画】感情を排除する「撤退トリガー」を、事前に設定し、宣言せよ。

山行計画を立てる際、「〇〇になったら引き返す」という具体的な撤退トリガーを、計画書に書き出してください。もし仲間がいるなら、全員でそのトリガーを共有し、宣言しあうのです。それは、あなたの未来の、感情的で不合理な自分に対する「契約書」となります。

CODE 3:【実践】「山は逃げない」と声に出し、最初の一歩を後ろへ踏み出せ。

引き返す決断をした後、最も難しいのは、実際に後ろを向いて、最初の一歩を踏み出すことです。その時、マロリーの言葉を声に出して言ってみてください。「山は、どうせ逃げないんだから」。その一言が、前へ進もうとする心の惰性を断ち切り、あなたに正しい一歩を踏み出す勇気を与えてくれるはずです。

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