THE MOUNTAIN CODE 100 山で死なない基礎知識 / 2章:天候とリスク管理

2-10. 風速10mをなめるな

 MA-SAN
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こんにちは、MA-SANです!
今日は登山の「風」についての話をしたいと思います。
皆さんも、天気予報の風速を見て「風速10m/s? これくらいなら大丈夫だろう」と、安易に考えてしまった経験はありませんか?
街中であれば、確かにその判断でも問題ないかもしれません。傘がさしにくくなったり、帽子が飛ばされそうになったりする、その程度の風です。
しかし、一歩山の稜線に出れば、その数字が持つ意味は全く変わってきます。それは「歩行すら困難になる」ほどの脅威となり、あなたの体温と体力を容赦なく奪い去る、まさに見えない牙となるのです。
このように、山の風を平地の感覚で捉えてしまうと、時に命に関わるような過ちを犯すことになりかねないのです。

事例:八ヶ岳の稜線で感じた「見えない壁」

あれは、厳しい寒さが残る冬の八ヶ岳でのことでした。登山口である美濃戸口の天候は穏やかで、風もほとんどなく、私たちは「今日は良い登山になりそうだ」と話しながら、順調に高度を上げていました。
背の高い木々に守られた樹林帯の中では、時折梢が「ざわ…」と音を立てる程度で、風の存在を強く意識することはほとんどありませんでした。しかし、森林限界を抜け、赤岩の頭から硫黄岳へと続く開放的な稜線に出た瞬間、それまでとは全く違う世界が待ち受けていたのです。
「ゴォォォォーッ!」
まるで大型トラックがすぐ横を通り過ぎるかのような、耳をつんざく轟音。それと同時に、猛烈な風が私たちの全身に叩きつけられました。それはもはや「風」という生やさしいものではなく、進むことを拒む「見えない壁」そのものでした。一歩前に足を踏み出すだけでも、全身の力を振り絞る必要がありました。少しでも気を抜けば、体がふわりと浮き上がり、滑落の危険がある谷側へと押しやられそうになるため、必死に耐風姿勢をとり続けました。
そして、それ以上に本当の恐怖として感じたのは、急速に奪われていく「体温」でした。
当時の気温は、おそらく氷点下5℃ほどだったはずです。しかし、暴風に直接晒された顔は、まるで無数の冷たい針で刺されるように痛み、感覚が麻痺していきます。性能の良いハードシェルのフードを深く被り、ネックウォーマーを目元まで引き上げても、風はウェアのわずかな隙間から執拗に侵入し、汗で少し湿ったインナーから、ごっそりと体温を奪っていくのが分かりました。
計算上の体感温度は、間違いなく-15℃を下回っていたことでしょう。肌が凍りつき、指先の感覚がなくなっていく中で、思考能力まで奪われていくような、本能的な恐怖を感じました。
「このまま進むのは、絶対にまずい」
体力が削られるだけでなく、判断力や集中力も、耳元の轟音と激しい寒さで蝕まれていきます。私たちは早々に「登頂」という目標を諦め、一刻も早く風を避けられる樹林帯へと、逃げるように引き返すことを決断しました。あの時ほど、山の風の恐ろしさを、身をもって実感したことはありません。

なぜ、山の風はこれほど危険なのか?

では、なぜ同じ風速であっても、山の上ではこれほどまでに危険な存在となるのでしょうか。その理由は、風がもたらす「物理的な力」と「体温の強奪」という、登山者にとって極めて厄介な2つの側面にあるのです。

① 破壊的な圧力(風圧は風速の”2乗”で増す)

まず絶対に知っておいていただきたいのは、風が物体に与える力(風圧)は、風速の2乗に比例して増大するという、動かせない物理法則の存在です。
私たちが普段、風速の数字から受ける印象よりも、実際の風の力ははるかに大きいのです。具体的には、以下のような影響が出てきます。

  • 風速10m/s → やや強い風です。街中で傘がさしにくくなり、木全体が揺れ始めます。山では、このあたりから風の影響をはっきりと感じ始めます。
  • 風速15m/s → 強い風と言えます。風に向かって歩くのが困難になり、体がふらつき始めます。特に足場の悪い場所では、転倒のリスクが現実味を帯びてきます。
  • 風速20m/s → 非常に強い風です。体を岩などでしっかりと確保しないと立っているのが難しくなります。小柄な方や、大きなバックパックを背負っていると、体が煽られて飛ばされる危険も出てきます。
  • 風速25m/s以上 → 猛烈な風です。屋外での行動は極めて危険であり、登山行動は不可能と言っても過言ではありません。

このように、風速が2倍になると、体が受ける力は4倍にもなります。風速10m/sならまだ歩けても、風速20m/sではまともに立っていられないのは、このためです。
さらに厄介なことに、山の稜線や、山と山の間にある窪んだ地形(コルや鞍部)は、風の通り道になりやすく、まるで狭い隙間を通り抜ける空気の流れが速まるように、風が局所的に勢いを増す「ベンチュリ効果」が発生します。これにより、天気予報の数値よりもはるかに強い風が吹くことがあるのです。

② 致命的な体温低下(ウィンドチル)

そしてもう一つ、風の脅威として絶対に忘れてはならないのが、体感温度の低下(ウィンドチル)です。風が吹くと、私たちの皮膚の表面にある暖かい空気の層が常に吹き飛ばされてしまいます。その結果、体から熱がどんどん奪われ、実際の気温よりもはるかに寒く感じるのです。
一般的な目安として、風速が1m/s強まるごとに、体感温度は約1℃下がると言われています。
例えば、実際の気温が0℃という状況でも、風速が10m/sであれば、私たちの体が感じる温度はなんと-10℃にもなるのです。もし汗や雨、雪でウェアが濡れていれば、水分が蒸発する際にさらに多くの熱が奪われるため(気化熱)、体温は危機的なスピードで低下していきます。
体温が奪われると、まず体の震えが止まらなくなります。そして恐ろしいことに、正常な判断ができなくなり、「このくらい大丈夫だ」と危険な状況にも関わらず行動を続けてしまうことがあるのです。これが、低体温症の入り口です。風は、あなたの体力を奪うだけでなく、冷静な判断力をも奪い、生命そのものを脅かす危険な存在なのです。

風を読み、風を避けるのが、賢者の選択

山の風は、決して精神論や体力だけで克服できる相手ではありません。それは、人間には抗うことのできない物理法則に基づいた、冷徹で暴力的な自然現象です。この事実を深く理解し、謙虚に受け入れ、賢明に行動することこそが、登山者にとって非常に重要な生存戦略と言えるでしょう。

CODE 2-5: 風速は2乗で牙を剥き、体温を容赦なく奪う。稜線やコルでは風は増幅されると心せよ。風が強い日は「行かない勇気」を持つこと。

この山の掟を胸に刻み、以下の行動を徹底していただきたいと思います。

CODE 1:【準備】出発前に風のリスクを見極めましょう

登山の成否は、実は家を出る前にその大半が決まっています。計画段階で、天気予報の「風速」を確認するのは、登山者の絶対的なルールです。特に、目標とする山の稜線上の予報を重視し、風速10m/sを「十分な警戒が必要なライン」、15m/s以上は「計画の中止・延期を真剣に検討すべきレベル」と、冷静に判断するべきです。そして、その予報を元に、万全の装備を選び抜いてください。防風性に優れたハードシェルは、あなたを守る「鎧」です。また、バラクラバ(目出し帽)やゴーグルは、冬山だけのものと思われがちですが、強風による体温低下や、砂埃などから顔や目を守るために、夏山でも非常に役立つ「盾」となります。

CODE 2:【実践】現場では五感を研ぎ澄ませ、即座に決断

一度山に入れば、最終的に頼れるのはあなた自身の五感です。樹林帯を抜けて、風に晒される稜線に出る前に、周囲の自然が発するサインに意識を集中させてみてください。遠くの木々の揺れ方、風が運んでくる音の種類(ヒューヒューという高い音か、ゴーッという地鳴りのような低い音か)、肌で感じる風の冷たさなど、それらは全て重要な情報です。「何かおかしい」と感じたら、それは山からの明確な警告サインです。稜線に出て、危険な状況に陥ってからでは遅いのです。危険を感じたら、躊躇なく安全な場所まで引き返す決断をしてください。その一瞬の決断こそが、あなたの命を救います。

CODE 3:【心構え】最強の武器は「行かない勇気」

最後に、最も大切な心構えについてお話しします。山の風は、根性や体力で立ち向かう相手ではありません。それは、先にも述べた通り、抗うことのできない自然の力そのものです。強風が予想される日に「今日はやめておこう」と決めること、楽しみにしていた計画を中止することは、決して敗北ではないのです。それこそが、知識と経験に裏打ちされた、登山者として最も賢明で、そして勇気ある判断なのです。その勇気ある判断こそが、あなたを登山者としてさらに成長させ、次の素晴らしい山の体験へと繋げてくれるはずです。山は逃げませんから、また最高のコンディションの日に訪れれば良いのです。

見えない壁に力で立ち向かうのではなく、その見えない流れを知識と経験で賢く避けること。それこそが、安全に長く登山を楽しむための、真の登山者の姿です。

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